2015.01.15 Ando et Lochard

渡し舟の上で

Sur la barque des passeurs

現存被曝状況*から、現存被曝状況へ

entre deux situations d'exposition existante

安東量子+ジャック・ロシャール Ryoko Ando et Jacques Lochard



第3回


写真: 高井潤


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編集部から




親愛なる量子さん、

 先日のお便りに心から感謝します。今こうして返信をしたためようとしているわけですが、これに先立って、いただいたお手紙を何度も読み返しました。というのも、あなたの手紙には、原発事故後の状況が持つ多くの側面が盛り込まれていて、読むたびに、数え切れないほどの思念と想い出が私の脳裡に湧いてくるのです。ただ、さまざまな活動で多忙をきわめているため、毎度、返信するのを翌日に延期していました。

 数週間がこうして過ぎました。そうするうち、福島県伊達市での第10回ICRPダイアログセミナーの折り、また私が末続を訪ねた折りに、私たちは再会しました。そんな折々に多くの主題について語り合いましたが、それらの主題のうちには、あなたが手紙の中で取り上げていたものもありました。被害を受けた地域で伝統や文化が果たす役割をめぐる問題です。けれども、私たちは問題の核心に言及したわけではありませんでした。実のところ、そうするための条件が整っていなかったのだと思います。私が言いたいのはつまり、あの折々の状況では、突っ込んだ意見交換をするために必要な落ち着いた心持ちになるのが難しかったということです。

 フランスに帰国してから、改めてもう一度、あなたの手紙を読みました。たちまち私の注意を捉えたのは、あなたがノルウェーのお友達の表情に看て取った「生への[いと]おしさ」でした。過去を振り返れば、私はかつてベラルーシ南部の村オルマニの住民といっしょに状況改善の道を探ったわけですが、あの頃オルマニの人びとの内に私が強く感じたのも生への愛おしさでした。まさにそれが動機となって、私は一方では、原発事故で被害を受けた地域で暮らす人びとへの協力をたゆむことなく続けようと決心し、他方では、その経験を放射線防護を専門とする同僚たちと分かち合おうと決意したのでした。

 けれども、付け加えて言わなくちゃなりません。生という次元に、私は最初から明白に気づいていたわけではありません。段々と、思いがけなくも写真を介して気づいたのでした。オルマニでのプロジェクトの発進からまる1年を経て、村人たちがついにエートス・チームのことをすっかり認めてくれた頃、私は時折、長時間仕事をしたあとの疲れを癒したくて、カメラを[]げて独りで村の通りや、村を取り囲む池や森へと通じる道を散歩しました。すると、道で出会う村人たちが進んでカメラの被写体になってくれました。とりわけ、自分が死んだときのためにポートレートを用意しておきたいと願う老人たちです。お墓に故人の写真を置くのがベラルーシの伝統の一つなのです。こうして私は、オルマニに派遣されて任務を重ねるうちに多くの村人を写真に撮り、任務と任務の間には、写真に写った彼らの眼差しを探るのを習慣とすることになりました。かくして彼らの眼差しの中に、あなたがお手紙の中で見事に描写してくれたあの不安と愛おしさの混ざり合いを見出したのでした。

 1998年の夏、そうして撮った写真の幾枚かと、ある同僚が撮影した数枚を合わせ、エートス・プロジェクトの最初の証言となる一冊の小さな本に収録したのですが、当時自分が何に突き動かされてそうしたのか、本当のところはよく分かりません。その夏は体調や気分がすぐれず、チームの3ヶ月ごとの派遣任務にも参加しなかったことを憶えています。もしかすると、それでもある意味で村にいたくて、私はあのとき、のちにフランスの幾つもの町での写真展に発展することになる仕事に手をつけたのかもしれません。逆に、非常によく憶えているのは、本に、「チェルノブイリ原発事故により汚染された地域における生活」というサブタイトルを付けるのを長い間ためらったことです。実際、そんなサブタイトルを読者に提示するのは、それまでメディアや、おおむね支配的な言説によって伝えられていたイメージを完全に[くつがえ]すことにほかならなかったからです。皆にとって、汚染された地域の住民は、いずれは放射能のせいで死ぬことを免れない犠牲者なのでした。あれらの地域で生きることを選択し得る、そして将来へ向けての計画を持ち得るという考え自体、多くの人びとにとって少なくとも突飛であり、ある人びとにとっては「犯罪的」でさえあったのです。事実、批判もされました。しかしながら、そのサブタイトルを採用することで、私は、私たちを信頼してくれた村人たちの望みを尊重し、尊厳ある生を営もうとする彼らの意志に対してよりいっそう揺るぎないやり方で連帯することになると深く感得していたのです。

 写真集に寄せられた感想に関しては、当時私にとって教訓に満ちていたエピソードをあなたに聞かせたい。この気持ちには[あらが]えません。

 エートス・プロジェクトの遂行中、ストリン区での任務が一つ終わるたびに、当時の「緊急事態及びチェルノブイリ」担当大臣と短時間面会し、プロジェクトの最新の進展について情報を提供することにしていました。その大臣こそ、住民参加で状況の改善を目指すというやり方をわれわれが提案した相手であり、その成功の可能性については相当懐疑的であったにもかかわらず、最終的にはそのやり方を試してみることに同意し、ゴーサインを出してくれた人物だったのです。面会のたびに、私は目立たないようにしながらですが、大臣室の壁に掛かっていた画家ヴィクトール・シュマトヴ1の大作に見とれたものです。実は私はシュマトヴと面識があったのです。1996年に、チェルノブイリの事故からちょうど10年だというのでミンスクで国際会議2が開催されたのですが、その折に画家に出会ったのです。会議場のホールにシュマトヴがチェルノブイリをテーマとする一連の絵を展示していて、私はそのうちの一つ、『ゾーンへの道』と題されていた一点を取得したのです。その後、私たちはコンタクトを保ちました。幾度にもわたって彼が私をアトリエに招いてくれ、そのアトリエで、私は彼の過去の軌跡と作品に親しむことができました。

 チェルノブイリ地方の出身であった彼は、事故後、災害の結果を前にする悲しみや怒りを描くことにエネルギーを傾注しましたが、それだけでなく、30キロ以内の立ち入り禁止ゾーンの文化資産を救い出すことにも尽力したのです。特に、ベラルーシの古い文化をテーマとする博物館の中に、チェルノブイリ地方の民族学および大衆芸術に特化するセクションを設置しました。シュマトヴは2006年に、70歳で没しました。彼はブラギンの美術館にも何点か作品を寄贈したので、あなたも2年前にあの美術館を訪ねた折り、彼の絵に目を[みは]ったことでしょう。

 大臣室の壁に掛かっていた絵は、画家の母親が夕暮れ時、立ち入り禁止ゾーンを区切る障壁の縁に坐っているところを描いていて、後景の窪地[くぼち]にプリピャチ川が配されていました。ごく古典的な技法に拠った絵で、その画幅からは悲しみと孤独の深い感情(あえていえば、生への愛おしさのもう一つの面でしょう)が立ち昇っていました。シュマトヴは事故の前と後に、同じ構図で幾つものバージョンの絵を描いたのでした。

 2001年の夏のことでした。被災地域に滞在した後いつもそうしていたように、われわれは大臣を訪ねたのですが、その折りは、エートス・プロジェクトをきちんと終了するための締めくくりのセミナーを年末にストリンで開催する3ことを予め決めていたので、特にその準備状況に関する情報を提供しました。その説明の途中、セミナー参加者全員と、オルマニの村人たちに写真集4を配布するつもりでいることを明かし、大臣にその写真集を一冊渡しました。大臣はたいへん興味を示してページをぱらぱらとめくり、写真に写っている人びともセミナーに参加するよう招かれていることの確認をわれわれに求めたあと、タイトルとサブタイトルを翻訳させました。タイトルとサブタイトルの意味を解すると、大臣はわれわれの方に改めて向き直り、やや感動した面持ちで、生活という点を強調してくれてありがとうと言われたのでした。

 大臣室から退出するとき、私はついシュマトヴの絵に目をやり、見とれ、大臣に、毎日じかにこのような作品をご覧になれるとは幸運ですねと言いました。すると大臣は私に、あなたはシュマトヴを知っているのかと尋ね、私の説明を聞くと、次のようなエピソードを語ってくれました。

《2、3年前、チェルノブイリをテーマとするシュマトヴの作品の展覧会がフランスで開かれましてね、その折りにシュマトヴはフランスに招かれました。で、ミンスクに帰って来ると、彼は向こうでの印象を語りたいからといって私に面会を求め、やって来ると、誇らしげに展覧会のカタログを私に見せました。私がそのカタログにどんなタイトルが付けられているのかと尋ねたところ、彼の答えはこうでした。『チェルノブイリに死す』。そこで私は彼に対し、重々しい口調で言い渡しましたよ。「シュマトヴ、今後はきみの作品を外国で展示することを禁止する!」》

 思うに、この禁止を口にしたとき、大臣は画家が有する海外旅行の自由を標的にしていたわけではないでしょう。そうではなくて、単に、展覧会のタイトルによって伝わるメッセージへの不同意を画家に示そうとしたのだと思います。第一、そのタイトルを選んだのがシュマトヴ自身だったと言い切ることはできません。私はむしろ、フランスにおける展覧会の開催者が、一般公衆の大半と同様にチェルノブイリと死を不可避的に結びつけて、そんなタイトルを選んだのではないかという気がします。大臣がシュマトヴに言ったという内容を大まじめに受け取るべきかどうか、またタイトルを決めたのがシュマトヴであったかどうか、そういったことは大して問題ではないですね。写真集のタイトルに敬意を払ったすぐ後でこのエピソードをわれわれに語ることで、大臣は、放射線汚染地域でせめぎ合う生と死の間の緊迫感を強調しようとしたのだと思います。そして、彼もまた生の側に付くということを、われわれに対して曖昧さなしに明示したのでした。

 否定すべくもなく、原発の大惨事は、その影響を受けるすべての者にもともと有限の存在であることを思い知らせ、すべての者を、やがて不可避的にやって来る自らの死に容赦なく直面させます。それは、一人ひとりの内部に深く刻み込まれる痕跡[こんせき]さながらに作用します。ですから、人が生の側に立ち戻るのが容易くないことはいうまでもありません。それは少し、近親者を失った後の[]の仕事に似ています。私が思うには、放射線の測定は事故の現実を対象化するために必ず経なければならないプロセスであり、生の側へ引き返してくるための必要条件です。それがヘル夫人のアプローチの意味ですが、あなたが末続の人びとと共に生み出し、見守ってきたアプローチのそれでもありますね。

 この経験は伝達することがきわめて難しく、あなたが書簡の中で強調しているとおり、それを本当に共有し合うことのできる状態にあるのは、それをすでに自ら経験した者だけです。そこのところを知るあなたなら、想像できるでしょう。万一原発事故が起こったときに放射線防護の専門家たちがしかるべく働けるように彼らの準備を整えておくという展望に立つ者がどんな障害を乗り越えなければならないか……。エートス・プロジェクトの同僚たちは皆、この困難にぶつかりました。無理解の壁を痛感した果てにチームが結論したのは、事故後状況において何が問題になるかを理解させるためには、当該の専門家たちを直接、まさにその状況を生きた人びと、その状況を現に生き続けている人びとの前に連れてくるほかに手段はないということでした。そこに、国際放射線防護委員会(ICRP)の専門家たちが相継いでダイアログセミナーに参加する主な理由があります。

 ノルウェーに関して、あなたは、日本ではほとんど誰もノルウェーの一部の地域がチェルノブイリ事故の結果ひどい被害を受けたことを知らないと指摘していますね。でも、それはヨーロッパでも同じです。地理的にはすぐ近くのことなのに、です。私自身、その現実を意識したのは2003年の9月の終わり頃、つまり事故から16年(!)も経ってからでした。気づきの機会となったのは、当時オーストリアのザルツブルグで開催された国際会議5でした。そこで私が初めて出会ったのがアストリッドで、彼女がサーミ人が体験した劇的な出来事を教えてくれたのです。いささかの情報交換・意見交換を経て初めて、彼女と私が事故後状況を同じ視線で見ていることが分かりました。そのときから、これは模範的と言ってよいと思えるわれわれの共同作業が始まり、それがノルウェーでも、フランスでも、ベラルーシでも、そして今では福島でも展開しているのです。

 サーミ族のことに話を戻すと、あの民族の運命は驚くほど原子の物語に関係しています(日本国民の場合のように)。まず冷戦時代の核実験に起因する放射線被害、そしてチェルノブイリの事故。20世紀の間に二度にわたって、彼らは無視できないレベルの放射能に[さら]されたのです。1960年代中頃、ノルウェーに住む北方サーミ人のセシウム137による内部被曝が、チェルノブイリ事故の後の1980年代末における南方サーミ人のそれと同じくらいのレベル、すなわち1キロあたり数百ベクレルだったことを知る人は[わず]かしかいません。ついでに言うと、私はほんの数年前にようやく、核実験による放射線被害のフランスにおける頂点だった1965年にパリ地方の住民の体内に存在していたセシウム137の量は全身で800ベクレルに達していたことを知りました。この値はフランス全国に関わった平均的被曝を示していると思います。してみると、私自身も汚染を免れなかったわけです! 当時私は高校生でしたが、私の周囲に、状況を意識している人は一人もいませんでした。あの頃は実際、原子に関わるすべてが秘密にされていました。

 ペンをおく前に、これもお伝えしておきたいと思います。私のことを心配してくれた末続[すえつぎ]のご婦人のエピソードを読んで私は大いにニンマリしましたが、それだけでなく、感動もしました。いただいたお便りの中のそのエピソードを語る部分を読んで、すぐに回想しました。2013年の3月の初め、私は末続に三度目の滞在をしていて、ある朝、日の出の頃、谷あいを散歩したのです。その夜、事実私は眞也さんの家に泊めてもらっていました。しかし、時差のせいで暁に目を覚ましてしまったのです。部屋で眠っている仲間を起こしてしまわぬようにそっと外へ出ました。そして[しばら]く歩いて行ったところで、偶然、早朝の光の中で田んぼを撮影している〔高井〕潤さんに出くわした。彼と私は肩を並べ、少し言葉を交わしながら長い間いっしょに歩きました。眞也さんの家へ引き返してくるとき、やや雲に遮られた太陽がすでに高く昇っていましたが、私たちは路傍で、エピソードのご婦人とすれ違ったのかもしれない……。

 今日のパリ地方は肌寒く、雨模様で、冬の霧がまだ立ちこめています。
 手紙をいただくのを楽しみにしています。
 友情を込めて、

2014年12月16日

ジャックより
(邦訳=堀茂樹)






[編集部から]

「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」

こう書いたのが、「福島のエートス」6代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。

この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復(rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち―そのひとりがロシャールさんです―が、この文書を2009年にまとめました7

邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。

安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。

ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。

「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し、それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」8

この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕





Le 16 décembre 2014


Chère Ryoko,

Je te remercie de tout cœur pour ta dernière lettre que j’ai lue à de nombreuses reprises avant de me décider à y répondre. Tu abordes en effet dans cette lettre très riche de nombreuses dimensions de la situation post-accidentelle si bien qu’à chaque lecture une foule de pensées et de souvenirs m’envahissaient mais, étant très occupé par différentes activités, je remettais à chaque fois ma réponse au lendemain.

Plusieurs semaines ont ainsi passées. Puis nous nous sommes retrouvés lors du 10ème Dialogue à Date et lors de ma visite à Suetsugi. A ces occasions, nous avons discuté de nombreux sujets, dont la question du rôle de la tradition et de la culture dans les territoires affectés que tu évoques dans ta lettre, mais nous n’en avons pas abordé les points essentiels. En fait, je pense que les conditions n’étaient pas réunies. Je veux dire par là le fait que, compte tenu des circonstances, il était difficile de trouver la sérénité nécessaire pour engager un échange approfondi.

De retour en France, j’ai relu une nouvelle fois ta lettre. Ce qui a retenu d’emblée mon attention c’est l’« amour émouvant pour la vie » que tu as décelé sur le visage de tes amis norvégiens. Rétrospectivement, je pense que c’est cet amour pour la vie que j’ai ressenti chez les habitants d’Olmany avec qui nous cherchions ensemble des voies d’amélioration qui a motivé ma détermination, d’une part de poursuivre sans relâche mon engagement auprès des habitants des territoires affectés et, d’autre part, de partager cette expérience avec mes collègues de la communauté de la radioprotection.

Mais je dois ajouter que cette dimension de la vie ne s’est pas d’emblée imposée à moi. Ce n’est que progressivement qu’elle a émergé par le biais inattendu de la photographie. Lorsque l’équipe ETHOS finit par être adoptée par les habitants d’Olmany, une bonne année après le démarrage du projet, il m’arrivait parfois, pour me délasser après les longues journées de travail, de me promener seul avec mon appareil photo dans les rues du village ou sur les chemins conduisant aux étangs ou aux forêts qui l’encerclent. A ces occasions je croisais en chemin des villageois qui se laissaient volontiers prendre en photo, en particulier les personnes âgées qui souhaitaient avoir un portrait en prévision de leur décès. C’est une tradition biélorusse de mettre une photo des défunts sur les tombes. J’avais donc au fil des missions photographié de nombreux villageois et j’avais pris l’habitude de sonder leurs regards entre chaque mission. C’est dans ces regards que j’ai trouvés comme toi ce mélange d’inquiétude et d’amour de la vie que tu décris si bien dans ta lettre.

Je ne sais pas vraiment ce qui m’a poussé au cours de l’été 1998 a rassembler quelques une de mes photos et celle d’un collègue dans un petit livre qui en fait fut le premier témoignage sur le projet ETHOS. Je me souviens que cet été là je ne me sentais pas très en forme et que je n’ai pas participé à la mission trimestrielle de l’équipe. Peut-être était-ce pour être néanmoins dans le village que j’entrepris ce travail qui devait donner naissance plus tard à une exposition de photos qui a été présentée dans plusieurs villes en France. Par contre, ce dont je me souviens très bien, c’est d’avoir longuement hésité avant d’adopter le sous-titre du livre : « La vie dans les territoires contaminés par l’accident de Tchernobyl ». En proposant en effet au lecteur un tel sous-titre, il s’agissait d’un renversement complet de l’image jusque là véhiculée par les médias et le discours ambiant. Pour tout le monde, les habitants des territoires affectés étaient des victimes, condamnées à mourir à terme du fait de la radioactivité. L’idée que l’on puisse faire le choix de vivre dans ces territoires et d’avoir des projets pour l’avenir était pour le moins saugrenue pour beaucoup, voire « criminelle » pour certains. Les critiques n’ont d’ailleurs pas manquées. Néanmoins, en optant pour ce sous-titre, j’avais le sentiment profond de respecter le désir des villageois qui nous faisaient confiance et de me solidariser de façon encore plus indéfectible avec leur volonté de vivre une vie décente.

A propos des réactions concernant le livre de photos, je ne résiste pas à l’envie de te raconter une anecdote qui à l’époque fut pleine d’enseignements pour moi.

A la fin de chaque mission dans le district de Stolyn au cours du projet ETHOS nous avions pris l’habitude de rencontrer brièvement le Ministre des Situations d’Urgence et de Tchernobyl de l’époque pour l’informer sur les derniers développements du projet. C’est en effet ce Ministre qui, malgré un certain scepticisme quant aux chances de réussite, avait finalement donné son accord pour expérimenter la démarche d’implication des habitants que nous lui avions proposée. A chacune de ces rencontres j’admirais discrètement une grande toile du peintre Viktor Shmatov accrochée sur un mur du bureau ministériel. Il s’avère que je connaissais Shmatov que j’avais rencontré en 1996 à l’occasion de la Conférence Internationale sur Tchernobyl qui s’était tenu à Minsk pour le 10ème anniversaire de l’accident. Il avait exposé une série de toiles consacrées à Tchernobyl dans le hall de la conférence et j’avais acquis l’une d’entre elles intitulée ‘La route vers la zone’. Nous avions par la suite gardé des contacts et il m’avait invité à plusieurs reprises dans son atelier où j’avais pu ainsi me familiariser avec son parcours et son œuvre.



La route vers la zone (The road to the Zone).

Etant natif de la région de Tchernobyl, après l’accident il avait consacré son énergie à peindre son ressenti face aux conséquences du désastre mais aussi à sauvegarder le patrimoine culturel de la zone interdite des 30 kilomètres. Il a entre autre fondé la section d’ethnographie et des arts populaires de la région de Chernobyl au sein du musée de la culture ancienne biélorusse. Shmatov est décédé en 2006 dans sa soixante dixième année. Tu as certainement admiré certains des tableaux qu’il a donnés au musée de Bragin lors de ton passage dans ce musée il y a déjà deux années.

La toile dans le bureau du Ministre représente la mère de l’artiste assise au crépuscule au bord d’une barrière délimitant la zone interdite avec en arrière plan la rivière Pripiat en contrebas. C’est une toile de facture très classique de laquelle émane un profond sentiment de tristesse et de solitude (l’autre face si j’ose dire de l’amour de la vie). Shmatov en a peint plusieurs versions avant et après l’accident.

Au cours de l’été 2001, comme après chaque séjour dans les territoires, nous avons rendu visite au Ministre pour l’informer, entre autre, des préparatifs du Séminaire que nous avions décidé d’organiser à Stolyn en fin d’année pour clore le projet ETHOS. Au passage nous lui avons fait part de notre intention de distribuer le livre de photos à l’ensemble des participants ainsi qu’aux villageois d’Olmany et nous lui en avons remis un exemplaire. Après avoir feuilleté le livre avec beaucoup d’intérêt et nous avoir demandé confirmation que les personnes figurant sur les photos seraient aussi invitées à participer au séminaire, il a demandé à se faire traduire le titre et le sous-titre du livre. Il s’est alors tourné vers nous et avec émotion nous a remercié d’avoir mis l’accent sur la vie. Comme nous prenions congé, je n’ai pu m’empêcher d’admirer le tableau de Shmatov et de dire au Ministre qu’il avait bien de la chance d’avoir une telle œuvre chaque jour sous son regard. Le Ministre m’a alors demandé si je connaissais Shmatov et après mes explications il nous a raconté l’anecdote suivante :

« Shamtov a été invité il y a quelques années en France à l’occasion d’une exposition consacrée à ses œuvres sur Tchernobyl. A son retour à Minsk il m’a demandé à être reçu pour me faire part de ses impressions et m’a présenté fièrement le catalogue de l’exposition. Je lui ai demandé comment cette dernière avait été intitulée et il m’a répondu : « Mourir à Tchernobyl ». Je lui ai alors dit d’un ton solennel : « Schmatov je vous interdis dorénavant de présenter vos œuvres à l’étranger !» ». Je pense qu’en formulant son interdit le Ministre ne visait pas la liberté de voyager à l’étranger du peintre, mais qu’il lui signifiait simplement son désaccord avec le message transmis par le titre de l’exposition. Je ne suis d’ailleurs pas sûr du tout que ce titre ait été choisi par Schmatov. Je vois plutôt un choix de l’organisateur de l’exposition en France associant inéluctablement Tchernobyl et la mort comme la grande majorité du public. Peu importe finalement si il fallait prendre au sérieux le ministre et si c’était Schmatov qui avait décidé du titre. En nous racontant cette anecdote, juste après avoir salué le titre du livre de photos, je pense que le Ministre voulaient souligner cette tension entre la mort et la vie qui se joue dans les territoires. Et il nous signifiait aussi sans ambiguïté qu’il se rangeait lui aussi du côté de la vie.

Indéniablement la catastrophe rappelle leur finitude à tous ceux qu’elle touche et elle les confronte brutalement à leur mort inéluctable. Cela joue certainement comme une empreinte qui s’inscrit profondément en chacun et il n’est évidemment pas facile de revenir du côté de la vie. C’est un peu comme le travail du deuil après la perte d’une personne proche. Je pense que la mesure de la radioactivité est un passage obligé pour objectiver la réalité de l’accident et aussi une condition nécessaire pour repasser du côté de la vie. Cela va de paire avec le retour d’une forme de sérénité et aussi la restauration de la dignité. C’est le sens de la démarche de Madame Helle, mais aussi de celle que tu as suscitée et accompagnée avec la communauté de Suetsugi.

Cette expérience est d’une extrême difficulté à transmettre et comme tu le soulignes seuls ceux qui l’ont déjà vécu sont vraiment en mesure de la partager. Tu peux imaginer l’obstacle à franchir dès lors que l’on se place dans la perspective de préparer des experts à un éventuel accident. Tous les collègues du projet ETHOS ont été confrontés à cette difficulté si bien qu’à force d’incompréhension l’équipe en avait conclu que pour faire comprendre ce qui est en jeu dans la situation post-accidentelle il n’y a finalement pas d’autres moyens que de confronter directement les experts intéressés à ceux qui on vécu cette situation et qui continuent à la vivre. C’est essentiellement pour cette raison que les experts de l’IRSN se succèdent dans les Dialogues.

A propos de la Norvège tu relèves qu’au Japon presque personne ne sait qu’une partie du pays a été durement touchée par les retombées de Tchernobyl. Mais c’est la même chose en Europe bien que nous soyons voisins. Personnellement je n’ai pris conscience de cette réalité que fin septembre 2003, soit 16 ans après l’accident! Ce fut à l’occasion d’un symposium international qui s’est tenu à Salzburg en Autriche. C’est Astrid que je rencontrais pour la première fois qui m’a appris le drame qu’avait vécu la nation Sami. Il ne nous a fallu que quelques échanges pour comprendre que nous partagions le même regard sur la situation post-accidentelle. Et c’est à partir de là qu’a démarré notre coopération que je peux qualifier d’exemplaire aussi bien en Norvège et en France, qu’en Biélorussie et maintenant à Fukushima.

Mais pour en revenir au peuple Sami, le destin de ce peuple est étonnamment lié à l’histoire de l’atome (comme le peuple japonais), d’abord avec les retombées radioactives des essais atomiques au cours de la guerre froide, et puis ensuite avec l’accident de Tchernobyl. A deux reprises au cours du XXème siècle il a donc été confronté à la radioactivité de façon significative. Peu de personnes savent en effet que le niveau de la contamination interne en césium 137 des samis du nord de la Norvège était au milieu des années soixante du même ordre de grandeur que la contamination chez les samis du sud après Tchernobyl à la fin des années quatre-vingt, soit plusieurs centaines de becquerels par kilogramme. Au passage, j’ai appris par hasard il y a quelques années seulement que le niveau de la charge corporelle totale des habitants de la région parisienne en césium 137 avait atteint 800 becquerels en 1965 l’année du pic de la contamination en France due aux retombées radioactives des essais nucléaires. Je pense que cette valeur est représentative de l’exposition moyenne qui affectait tout le pays et je n’ai donc pas échappé à cette contamination! A cette époque j’étais lycéen et personne dans mon entourage n’était conscient de la situation. C’était en fait l’époque du secret concernant tout ce qui touchait à l’atome.

Avant de prendre congé je voudrais encore te dire que l’épisode de cette brave dame de Suetsugi qui se fait du souci pour moi m’a fait beaucoup sourire mais aussi beaucoup touché. En lisant le passage de ta lettre qui relate cet épisode je me suis immédiatement remémoré la promenade que j’avais faite au lever du jour dans la vallée lors de ma 3ème visite début mars 2013. Cette nuit là, j’avais effectivement bénéficié de l’hospitalité de Shinya, mais encore sous le coup du décalage horaire, je m’étais réveillé à l’aurore et m’étais glissé discrètement dehors pour ne pas réveiller mes compagnons de chambrée. Plus tard j’avais retrouvé par hasard Jun sur un chemin en train de photographier les rizières dans la lumière matinale et puis nous avions marché longuement côte à côte en échangeant quelques mots. A notre retour vers la maison de Shinya, alors que le soleil voilé était déjà haut dans le ciel, peut-être avions-nous croisé cette brave dame sur le bord de la route…

Aujourd’hui le temps est froid et pluvieux et la brume hivernale ne s’est pas levée sur la région parisienne.

Au plaisir de te lire.
Bien cordialement.
Jacques





編集部註
〔*〕現存被ばく状況 [Existing exposure situation] ― 「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf

「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今,行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は,すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には,これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中,又は悪意ある行動により発生するかもしれない,至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。

(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが,一方,線量限度の適用の原則は,計画被ばく状況の結果として,確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は,害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性,被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは,すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら,合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の,計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も,委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)

詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。

また、『ICRP111から考えたこと―福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html





〔7〕ICRP Publ. 111―正式には、ICRP Publication 111, Application of the Commission's Recommendations to the Protection of People Living in Long-term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency.
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111

〔8〕インタビュー ―「(東日本大震災3年)福島とチェルノブイリ ジャック・ロシャールさん」(「朝日新聞」2014年3月21日) http://www.asahi.com/articles/DA3S11040735.html




安東量子+ジャック・ロシャール「渡し舟の上で―現存被曝状況から、現存被曝状況へ」目次

 第1回
 第2回

*第1回は「朝日出版社第二編集部ブログ」でお読みいただけます。



梶谷懐「現代中国―現在と過去のあいだ」目次

第1章:烏坎村と重慶のあいだ
 第 1回 公共性と一般意志をめぐる考察(1)
 第 2回 公共性と一般意志をめぐる考察(2)
 第 3回 公共性と一般意志をめぐる考察(3)
 第 4回 公共性と一般意志をめぐる考察(4)

第2章:左派と右派のあいだ
 第 5回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(1)
 第 6回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(2)
 第 7回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(3)

第3章:「国家」と「民間」のあいだ
 第 8回 中国は国家資本主義なのか(1)
 第 9回 中国は国家資本主義なのか(2)
 第10回 中国は国家資本主義なのか(3)―中国経済の「自生的な秩序」と国家資本主義

第4章:日本と中国のあいだ
 第11回 「近代性」をめぐる考察(1)
 第12回 「近代性」をめぐる考察(2)
 第13回 「近代性」をめぐる考察(3)
 第14回 「近代性」をめぐる考察(4)
 第15回 「近代性」をめぐる考察(5)

*第1回から第12回は「朝日出版社第二編集部ブログ」でお読みいただけます。