渡し舟の上で
Sur la barque des passeurs現存被曝状況*から、現存被曝状況へ
entre deux situations d'exposition existante
第2回
Pour lire les textes français, cliquez ici.
[編集部から]
親愛なるジャック
あなたから手紙をもらって、このお返事を書くまでのあいだに、ひとつ、渡し舟を漕いできました、と言っていいかしら。
福島の友人たちと一緒に、ノルウェーへ行ってきたのです。ちょうど2年ぶりのことでした。
気心の知れた古い友人たちに再会するようで、この訪問が決まってからというもの、私は、ずっと楽しみにしていました。2年ぶりの訪問だから、ということだけが理由ではありません。実を言うと、ノルウェーの友人たちは、2年前に最初に会ったときから、私たちの友人だったのです。こんな風に書いても、きっとあなたは、不思議に思わないんじゃないかしら。
日本では、ノルウェーの一部の地域が、チェルノブイリ事故によって大きな影響を受けたことは、ほとんど知られていません。ましてや、そこに暮らす人々が、どのように放射能と向き合ってきたかなんて。
ノルウェーの放射能対策は、あなたはよくご存知のように、牛、羊、山羊、トナカイなどの牧畜への対応にほぼ限られています。27年という時間を経て、また、これをノルウェーらしい、と言ってもいいのかどうかわかりませんが、人間味がありながら、どこまでも合理性に貫かれた対策によって、ノルウェーのチェルノブイリ対策は、現在は既に、十分に落ち着いたものでありました。現在では、一般の消費者は、食品の基準値の存在を気にしている人さえ少ないとのことでした。(ここでいう「合理性」は、いかに現実に問題となっているところに的を絞って効果的に対策を施すか、その点への注力の仕方が「合理的」である、という意味です。)
チェルノブイリ事故から四半世紀経った現在でも、ノルウェーの牧畜で放射能対策が必要とされる大きな理由は、夏期に放牧しているから、ということは、あなたは言わなくてもご存知ですね。つまり、夏期でも日本ではよくそうされているように、放牧をしないで、管理された牧草地で飼い続ければ、対策の必要性は、ほとんどなくなってしまうわけです。なぜ、そうまでしてこの地域で放牧を続けるのか、放牧を止めるという選択はなかったのか、そんな疑問が少なくないひとの脳裏に浮かぶと思います。私たちもそうでした。2年前には私が、今回は別の友人が、それを尋ねました。答える人は違いましたが、回答は、2回とも同じ、明快なものでした。
放牧はノルウェーの重要な文化である。これを止めるということは、文化を捨てるということだ。外で起きた事故によって、国の文化を変えることはしない、と、チェルノブイリ事故後の対応策を決める早い段階で、大臣クラスの政治判断で国は決定した。これが、私たちの案内をしてくれたノルウェー放射線防護庁の人の答えでした。
その答えを聞きながら、事故の直後から、私の中にずっと渦巻いている、ひとつの問いを思い起こしていました。事故後、私たちのまわりには、測定結果や、ついで、政府が定めるさまざまな基準といった、放射能にまつわる多くの数値が飛び交いました。まるで洪水のように数値が溢れる中、私が知りたかったのは、ひとつだけ、と言っていいのかもしれません。
「その数値は、本当に、この暮らしを、この場所を、捨てるにあたいするものなのか。」
私は、今もなお、この問いに対する答えを知りたくて、「福島のエートス」と自分で名付けた活動を続けているのかもしれません。福島では、事故から3年半を経て、既にこの問いに対して、自分自身で答えを見つけた人も多くいます。けれど、問題を個人の選択に限定しないで、福島における原発事故全体を見渡したときに、その答えは、いまだ見つけられていないのではないか、と感じています。そう、私が会ったノルウェーの人たちが、即答するようには。
2年前、そして今回も訪れたヴァルドレス地方で、チェルノブイリ事故対応にあたってきた現地の人たちは、自分たちでゼロから作り上げてきた放射能対策の成果について、自信を持って語ってくれました。現在では、ヴァルドレス地方の乳製品は、ノルウェー国内の対策が必要とされない地域と比べても、セシウム濃度が低く抑えられていることが誇りだ、と、彼らは笑顔で言いました。
けれど、2年前の訪問時に聞いた、汚染発覚当時のことを語るときの、彼らの表情の硬さは、今もはっきりと覚えています。観測機器は首都のオスローにしか存在せず、ヴァルドレス地方での汚染に気がついたのは、事故から数週間経ってからのことであったということ。第一発見者のアンヌ・マリーさんは、地域内で生産された牛乳の放射性ヨウ素131の数値が異常であることで汚染の事実に気がついたこと。行政の対応は鈍く、また、当時は測定機器もなかったため、地元の人から寄付を集めて、測定機を一台購入し、それでありとあらゆるものを測って回ったこと。測定機器のメーカーは、屋外で使われることを想定しておらず、彼女たちの使い方に驚いていたこと。情報は大きく混乱し、行政と国への不信が渦巻いたこと。地元の人間である彼女たちが測ることによって、少しずつ地域は落ち着きを取り戻してきたこと。
思い出話のような懐かしさを漂わせながらも、その語り口と表情には、十分すぎる緊張感が、なお、残されていました。現在について語るときの穏やかな様子との落差に、私は、当時の彼らの置かれた状況を思い、もしかすると、自分もこのような表情をしているのだろうか、と思ったのでした。
その表情は、絶望のような、怒りのような、悲しみのような、寂しさのような、あらゆる感情を混ぜ合わせた、それでいて、どこまでも生への愛おしさに貫かれていて、私は、そのように複雑な表情を、それまでに見たことがありませんでした。それは、あなたの言う「言語を絶する経験」をした者だけが持つ独特の表情であったのでしょう。彼らは、2年前に、福島でも必ず対策はできるはずだ、と、真っ直ぐに私の目を見て言いました。その時、ヴァルドレスの人たちは、同じ痛みを知るものとして、私たちに彼らの経験を伝えようとしてくれていると、私は感じました。福島の原発事故によって生じた困難を理解し、共有しようとしてくれている人たちがいる、そのことが、私にはなにより嬉しかった。そして、同じ事を、その後に訪れたベラルーシでも感じたのでした。
私たちが、話した内容は放射能のことばかりでしたが、交わし合ったのは、なにより、自分たちの言葉にならない経験であったのだと思います。事故が起きて、なにがつらかったのか、なにが問題となっているのか、なにを求めているのか、なにを感じてきたのか。これらの多くは、言葉にすることが難しく、仮に、言葉にしたとしても、経験を共有していない人には、その本当に意味することが理解してもらえないであろうと思います。けれど、ノルウェーとベラルーシにおいて、私たちは、短いつかの間の交流であったにも関わらず、言葉の背後にある、これらの経験を理解しあい、共有することができた、そんな気がしてなりません。この不思議とも言える出来事が、その後の2年の間、どれだけ、私の支えになったことでしょうか。同じ経験をし、同じ思いを共有してくれる人たちが、海の向こうにいる、そう思えることが、私にとっては大きな励みであり続けました。同時に、このように私が得た支えと励ましを、他にも必要としている人が福島にきっといる。ずっと、そう思ってきました。ですから、今回、友人たちと一緒に再訪できたのは、私にとって格別の喜びでした。
ところで、あなたに会ったら教えてあげようと思ってすっかり忘れていたのですが、この間、
7月に行った、地域のホールボディーカウンター測定の時です。(ミニバスに乗って希望者みんなで検査場所に向かいました。同乗の皆さんがあまりに楽しそうな様子なので、私たちは、ホールボディーカウンター遠足と、勝手に呼んでいます。)
測定の順番を待っている、笑い声の絶えない待合室で、私は、それまでほとんど顔を合わせたことのない女性と放射能についての雑談をしていました。末続地区では、2011年の秋から地元の人たちが中心となって、土壌測定や空間線量などの放射能の測定を始めました。そのことを、大したもんだ、と言った後、彼女は言うのです。
なんだか、外人さんもしょっちゅう来てるんだってねぇ。
こんな、なんにもないところに来てくれるなんて、ほんとにありがたいねぇ。
それもこれも、がんばってきた人がいるからだよ。
なんだか、外人さん、眞也の家に泊めてくれってくるんだってよ。
食べものもなんにも構わねぇから、ただ、泊まるところだけあればいいから、って。
そう頼まれたら、断れないべ。
この間、眞也が布団干してるの、見たよ。
この話をしてくれたのは、あなたが会ったことのない女性です。
「外人さん」は、言わずと知れた、あなたのことですね。
私は、「渡し守」であったはずのあなたが、いつの間にか、見知らぬ異国の片隅で泊まる場所に困って、地元の友人に宿泊を頼み込む、少し気の毒な、けれど、とても人のよい親切な外人さんになっているのが、ひどくおかしくて、彼女の話を訂正しないでおくことにしました。
笑いをかみ殺しながら、真面目な顔をして、それがあたかも初めて知る事実であるかのように、変わった外人さんもいるものですねぇ、でも、ありがたいことですね、と相槌を打っておきました。
あなたの経歴どころか、名前も知らない、会ったことさえない人々の間にも、たまに訪れる外人さんのことは、こんな風に知られていっています。
そして、あなたからのお手紙を読んで、泊まる場所に困り、遠い日本の田舎で立ち尽くすあなたと、両親の訪れを待ち望んで蛍の光の中で外に
そうそう、ホールボディーカウンターの測定の結果は、福島県の多くの地域でそうであるように、今回も、全員が機械(ホールボディカウンター)の検出限界未満でした。
2014年9月30日
金木犀の香る夜に
安東量子
金木犀の香る夜に
安東量子
[編集部から]
「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」
こう書いたのが、「福島のエートス」**代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。
この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復(rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち――そのひとりがロシャールさんです――が、この文書を2009年にまとめました***。
邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。
安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。
ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。
「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し、それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」****
この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕
「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」
こう書いたのが、「福島のエートス」**代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。
この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復(rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち――そのひとりがロシャールさんです――が、この文書を2009年にまとめました***。
邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。
安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。
ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。
「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し、それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」****
この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕
La traduction francaise (Traduite par Shigeki Hori) et le texte original:
(仏訳と仏語原文|仏訳=堀茂樹):
Cher Jacques,
Après avoir eu le bonheur de recevoir ta lettre, j’ai pris, pour ainsi dire, une barque de passage.
En effet, je suis retournée en Norvège avec mes amis de Fukushima. Cela faisait précisément deux ans depuis mon dernier voyage.
C'était comme si j'allais rendre visite à de bons vieux amis à qui je peux parler en toute confiance, si bien que je me suis réjouie aussitôt la date du départ fixée. Mais ceci ne tenait pas uniquement au fait que ce serait ma deuxième visite en Norvège. À dire vrai, dès notre première rencontre il y a deux ans, mes amis norvégiens m’apparaissaient déjà comme des amis proches. Je suppose que la vision des choses que j’adopte ici, ne te surprendra pas tellement.
Au Japon, presque personne ne sait qu’une partie de la Norvège a subi de grands dégâts à cause de la catastrophe de Tchernobyl, encore moins comment les gens qui y vivent ont fait face à la radioactivité.
Comme tu le sais fort bien, les mesures qui ont été prises en Norvège contre la radioactivité sont quasiment limitées au contrôle de l’élevage des vaches, des moutons, des chèvres et des rennes… Aujourd’hui, vingt-sept ans après l’accident, la situation s’est suffisamment stabilisée grâce à ces mesures dont je ne sais pas si elles méritent effectivement d’être qualifiées de « norvégienne », mais qui, en tout cas, sont pleines d’humanité tout en étant parfaitement rationnelles. J’ai même entendu dire, qu’il n’y a plus beaucoup de consommateurs qui se préoccupent du niveau admissible de césium radioactif dans la nourriture. (Par le terme “rationnel”, j’entends la manière dont les Norvégiens ont concentré leurs efforts sur la résolution des problèmes réellement importants.)
Bien sûr, je ne t’apprends rien en disant qu’après un quart de siècle, les mesures contre la radioactivité restent toujours nécessaires pour l’élevage en Norvège. La raison principale en est le pâturage qui est pratiqué en été. Autrement dit, si les Norvégiens abandonnaient la technique du pâturage et élevaient le bétail dans les prés bien entretenus comme le font les Japonais, les mesures de protection pourraient être largement diminuées. Je pense qu’un bon nombre de personnes seraient curieuses de savoir pourquoi les Norvégiens continuent malgré tout de pratiquer le pâturage, alors qu’il serait tellement plus simple d’y renoncer. Ce fut aussi notre cas. Lors du dernier voyage il y a 2 ans, j’avais moi-même abordé le sujet ; mais, cette fois-ci, ce fut une autre personne, une de mes amies japonaises qui voyageaient avec moi, qui a interrogé nos amis norvégiens. Nous n’avions pas affaire au même interlocuteur, mais la réponse, claire et nette, a été la même :
« Le pâturage fait partie de la culture norvègienne. Mettre un terme à cette pratique équivaudrait à abandonner des pans entiers du patrimoine national. Au moment de choisir les mesures ad hoc à prendre face aux retombées radioactives de l’accident de Tchernobyl, l'Etat a dû se décider. Ne pas compromettre la l’héritage culturel du pays pour une catastrophe qui s’était produite à l’étranger, telle a été la décision prise assez tôt au niveau ministériel» Voilà la réponse que nous avait fournie la personne de l’agence nationale de la radioprotection de Norvège qui nous accompagnait tout au long de notre voyage.
En écoutant mes amis norvégiens, je pensais à une question qui tourbillonne dans ma tête depuis l’accident de la centrale de Fukushima. Après ce dernier, beaucoup de chiffres comme les résultats des mesures de la radioactivité ou les diverses valeurs de référence fixées par le Gouvernement, ont surgi autour de nous et ont semé le bazar. Moi qui me trouvais en plein milieu de ces flots de chiffres, je ne désirais savoir qu’une seule chose : « Ce que révèle ces chiffres est-il grave au point où nous devrions abandonner la vie que nous menons, les terres sur lesquelles nous vivons ? »
Si je poursuis mes activités que j’ai baptisées moi-même « Ethos à Fukushima », c’est peut-être parce qu’aujourd’hui encore, je cherche toujours à trouver une réponse à cette question.
Trois ans et demi s’étant écoulés depuis l’accident, il existe certes de nombreuses personnes qui se sont trouvées une réponse pour elles-mêmes. Toutefois, si l’on ne se limite pas aux choix individuels, et si l’on considére l’accident nucléaire de Fukushima dans sa totalité, j’ai le sentiment que la question reste toujours en suspens. En tout cas, ce n’est pas comme en Norvège, où les gens étaient capables d’apporter des réponses immédiates à nos questions.
À Valdres, région ayant subi les conséquences de l’accident de Tchernobyl et que j’ai visité pour la deuxième fois, les résidents locaux nous ont parlé avec fierté des mesures de protection qu’ils ont eux-mêmes conçues et mises en oeuvre à partir de zéro ainsi que de leur efficacité. Tout sourire, ils nous disaient qu’ils étaient fiers du fait que la concentration du césium dans les produits laitiers de Valdres ait été maintenue à un niveau inférieur à celle des produits issus des autres régions de la Norvège, où les mesures de radioprotection n’étaient pas préscrites.
Néanmoins, je me souviens clairement que lors de ma visite il y a 2 ans, j’avait été frappée par une certaine dureté qui s’exprimait dans leurs visages lorsqu’ils m’ont raconté ce qui s’était passé lors de la découverte de la contamination. En voici les détails : comme les appareils de mesure n’existaient qu’à la capitale Oslo, la contamination de Valdres n’a été détectée qu’au bout de plusieurs semaines après la catastrophe. Mme Anne Helle s’était aperçue en première de la contamination, par le fait que le chiffre de l’iode radioactive 131 contenu dans le lait produit dans la région était anormal. Comme l’administration ne réagissait que très lentement et qu’il n’y avait alors aucun compteur Geiger sur place, Mme Helle en a acheté un avec les dons qu’elle avait collectés auprès des habitants locaux. Munie de son compteur, elle a parcouru la région de long en large en mesurant tout ce qu’elle pouvait mesurer. Les fabricants du compteur Geiger ont été surpris de la manière dont elle et ses amies s’en servaient, parce qu’ils ne s’attendaient pas à ce que l’appareil soit utilisé à l’extérieur. À l’époque, les informations étaient extrêmement confuses et la méfiance envers l’administration étatique ne cessait de s’accroître. Mais grâce au fait que ce furent les gens de la région, comme Mme Helle, qui effectuaient les mesures, le calme est peu à peu revenu.
Bien qu’en laissant échapper parfois un air empreint d’une sorte de nostalgie, ils gardaient encore une nervosité plus qu’évidente dans leurs expressions ainsi que dans le ton de leurs voix. Impressionnée par la différence qu’avait cette expression par rapport à l’air tranquille qu’ils avaient lorsqu’ils parlaient du moment actuel, j’ai songé à leur situation d’antan et même je me suis demandée si moi aussi j’avais peut-être une expression semblable à la leur.
L’expression sur leurs visages traduisait toutes sortes de sentiments comme le désespoir, la colère, la tristesse, la solitude ; elle était néanmoins pénétrée d’un amour émouvant pour la vie. Je n’avais jamais vu jusqu’alors une expression de visage aussi complexe que celle-là. C’aurait été une expression spécifique que portent seuls ceux qui ont connu ce que tu appelles une « expérience ineffable ». Ils m’ont affirmé il y a deux ans, en me regardant droit dans les yeux, qu’il devrait sûrement aussi exister à Fukushima la possibilité de prendre des contre-mesures efficaces face à la situation de la contamination radioactive. J’ai ressenti à cet instant que les habitants de Valdres essayaient de me transmettre leur expérience en tant qu’individus connaissant la même souffrance. Qu’il y ait des personnes qui veuillent bien comprendre les peines causées par l’accident nucléaire de Fukushima et qui essayent de les partager, cela m’a touché d’une manière profonde. Et ce fut la même émotion que j’ai éprouvée en Biélorussie que j’ai visitée plus tard.
Certes, la conversation que nous avons eue portait quasi exclusivement sur la radioactivité, mais je pense que ce que nous avons échangé par-dessus tout, ce furent nos expériences respectives qui ne peuvent être exprimées par des mots. Une fois le grave accident survenu, quelles ont été les souffrances que nous avons endurées ? De quoi s’agissait-il ? Que cherchions-nous ? Quels sentiments avons-nous éprouvés ? La plupart de ces choses sont difficiles à formuler verbalement. Et même si l’on y arrivait, la signification véritable ne pourrait pas être saisie par ceux qui n’ont pas partagé la même expérience. Cependant, je ne peux m’empêcher de croire qu’en Norvège et en Biélorussie, alors que ce fût chaque fois un contact éphémère d’une courte durée, nous avons pu nous comprendre mutuellement et même partager nos expériences au-delà des mots. Je ne saurais dire à quel point cette communication qui peut paraître bien étrange, constituait pour moi un grand soutien pendant les deux années qui ont suivie. Le fait de pouvoir penser qu’il existe de l’autre côté de la mer des gens qui ont vécu les mêmes expériences et partagent les mêmes sentiments, m’a toujours été d’un grand encouragement. J’ajoute que j’ai toujours pensé qu’il y avait sûrement d’autres personnes à Fukushima qui auraient eu besoin du soutien et de l’encouragement que j’avais ainsi obtenus. C’est pourquoi la nouvelle visite en Norvège que j’ai pu faire cette fois avec mes amis a été une joie exceptionnelle pour moi.
A propos, lors de notre dernière rencontre, j’avais complètement oublié de te raconter un épisode amusant,entendu à Suetsugi.
Ce fut au moment de l’examen anthropogammamétrique qui s’est déroulé en juillet dans la zone. (Les personnes qui souhaitaient passer l’examen ont rejoins les locaux en minibus. Tout le monde dans le bus m’apparaît chaque fois être si joyeux que j’appelle personnellement ce déplacement « l’excursion anthropogammamétrique ». )
Dans la salle d’attente où résonnaient sans cesse des rires, je bavardais à propos de la radioactivité avec une inconnue. Dans la zone de Suetsugi, depuis l’automne 2011, les habitants de la région ont pris l’initiative de mesurer la radioactivité au travers des débits de dose au niveau du sol ou dans l’air. Mon interlocutrice trouvait cette initiative admirable. Mais écoute ce qui a suivi :
« Vous savez, il paraît qu’un monsieur étranger vient fréquemment par ici. C’est très gentil de sa part de venir dans un village comme le nôtre, où l’on ne trouve quasiment rien. Tout ça, c'est grâce au gens qui ont travaillé dur jusqu’à aujourd’hui. Il paraît que ce monsieur vient chaque fois chez Shinya. Il dit qu’il n’a pas besoin de manger, qu’il lui suffit seulement d’une place pour dormir. On ne peut quand même pas refuser une demande si modeste. À propos, J’ai vu l’autre jour Shinya exposer des futons au soleil. »
C’est une femme que tu n’as jamais rencontrée qui m’a fait ce récit. A l’évidence, le « monsieur étranger », c’est toi. Dans ce récit, toi qui devrait être le « passeur » était devenu à ton insu un « monsieur étranger », un brin malheureux, qui se fait du souci pour se loger, et supplie un ami du coin de lui laisser une place pour une nuit, mais qui est tout plein de gentillesse et de bonté. J’ai trouvé ce récit si drôle que j’ai poursuivi la conversation sans corriger la version de mon interlocutrice. En étouffant mon rire, et avec un air sincère comme si cela avait été la première fois que j’étais mise au courant, j’ai acquiescé à ses paroles en disant que c’était certes un étranger plutôt bizarre, mais qu’avec sa volonté généreuse il n’en était pas moins le bienvenu.
Ainsi, même entre les gens qui ne t’ont jamais vu, qui ne savent pas ton nom et encore moins ta carrière, la présence d’un étranger qui vient de temps en temps à Suetsugi est en train de se répandre.
J’ajoute pour finir qu’en lisant ta dernière lettre, je ne sais pourquoi, mais l’image de toi qui reste planté sur place ne sachant que faire pour passer la nuit dans une campagne éloignée du Japon, et celle dans ton enfance qui attend dehors dans la lueur des lucioles la venue de tes chers parents, m’ont paru superposées.
Ah oui, il vaudrait quand même mieux que j’ajoute également ceci : le résultat de l’examen anthropogammamétrique a été bon pour tout le monde. Cette fois-ci, de même que lors des examens précédents, tous les résultats se sont révélés au-dessous de la limite de détection. Ce qui est aussi le cas dans beaucoup de régions de Fukushima.
Après avoir eu le bonheur de recevoir ta lettre, j’ai pris, pour ainsi dire, une barque de passage.
En effet, je suis retournée en Norvège avec mes amis de Fukushima. Cela faisait précisément deux ans depuis mon dernier voyage.
C'était comme si j'allais rendre visite à de bons vieux amis à qui je peux parler en toute confiance, si bien que je me suis réjouie aussitôt la date du départ fixée. Mais ceci ne tenait pas uniquement au fait que ce serait ma deuxième visite en Norvège. À dire vrai, dès notre première rencontre il y a deux ans, mes amis norvégiens m’apparaissaient déjà comme des amis proches. Je suppose que la vision des choses que j’adopte ici, ne te surprendra pas tellement.
Au Japon, presque personne ne sait qu’une partie de la Norvège a subi de grands dégâts à cause de la catastrophe de Tchernobyl, encore moins comment les gens qui y vivent ont fait face à la radioactivité.
Comme tu le sais fort bien, les mesures qui ont été prises en Norvège contre la radioactivité sont quasiment limitées au contrôle de l’élevage des vaches, des moutons, des chèvres et des rennes… Aujourd’hui, vingt-sept ans après l’accident, la situation s’est suffisamment stabilisée grâce à ces mesures dont je ne sais pas si elles méritent effectivement d’être qualifiées de « norvégienne », mais qui, en tout cas, sont pleines d’humanité tout en étant parfaitement rationnelles. J’ai même entendu dire, qu’il n’y a plus beaucoup de consommateurs qui se préoccupent du niveau admissible de césium radioactif dans la nourriture. (Par le terme “rationnel”, j’entends la manière dont les Norvégiens ont concentré leurs efforts sur la résolution des problèmes réellement importants.)
Bien sûr, je ne t’apprends rien en disant qu’après un quart de siècle, les mesures contre la radioactivité restent toujours nécessaires pour l’élevage en Norvège. La raison principale en est le pâturage qui est pratiqué en été. Autrement dit, si les Norvégiens abandonnaient la technique du pâturage et élevaient le bétail dans les prés bien entretenus comme le font les Japonais, les mesures de protection pourraient être largement diminuées. Je pense qu’un bon nombre de personnes seraient curieuses de savoir pourquoi les Norvégiens continuent malgré tout de pratiquer le pâturage, alors qu’il serait tellement plus simple d’y renoncer. Ce fut aussi notre cas. Lors du dernier voyage il y a 2 ans, j’avais moi-même abordé le sujet ; mais, cette fois-ci, ce fut une autre personne, une de mes amies japonaises qui voyageaient avec moi, qui a interrogé nos amis norvégiens. Nous n’avions pas affaire au même interlocuteur, mais la réponse, claire et nette, a été la même :
« Le pâturage fait partie de la culture norvègienne. Mettre un terme à cette pratique équivaudrait à abandonner des pans entiers du patrimoine national. Au moment de choisir les mesures ad hoc à prendre face aux retombées radioactives de l’accident de Tchernobyl, l'Etat a dû se décider. Ne pas compromettre la l’héritage culturel du pays pour une catastrophe qui s’était produite à l’étranger, telle a été la décision prise assez tôt au niveau ministériel» Voilà la réponse que nous avait fournie la personne de l’agence nationale de la radioprotection de Norvège qui nous accompagnait tout au long de notre voyage.
En écoutant mes amis norvégiens, je pensais à une question qui tourbillonne dans ma tête depuis l’accident de la centrale de Fukushima. Après ce dernier, beaucoup de chiffres comme les résultats des mesures de la radioactivité ou les diverses valeurs de référence fixées par le Gouvernement, ont surgi autour de nous et ont semé le bazar. Moi qui me trouvais en plein milieu de ces flots de chiffres, je ne désirais savoir qu’une seule chose : « Ce que révèle ces chiffres est-il grave au point où nous devrions abandonner la vie que nous menons, les terres sur lesquelles nous vivons ? »
Si je poursuis mes activités que j’ai baptisées moi-même « Ethos à Fukushima », c’est peut-être parce qu’aujourd’hui encore, je cherche toujours à trouver une réponse à cette question.
Trois ans et demi s’étant écoulés depuis l’accident, il existe certes de nombreuses personnes qui se sont trouvées une réponse pour elles-mêmes. Toutefois, si l’on ne se limite pas aux choix individuels, et si l’on considére l’accident nucléaire de Fukushima dans sa totalité, j’ai le sentiment que la question reste toujours en suspens. En tout cas, ce n’est pas comme en Norvège, où les gens étaient capables d’apporter des réponses immédiates à nos questions.
À Valdres, région ayant subi les conséquences de l’accident de Tchernobyl et que j’ai visité pour la deuxième fois, les résidents locaux nous ont parlé avec fierté des mesures de protection qu’ils ont eux-mêmes conçues et mises en oeuvre à partir de zéro ainsi que de leur efficacité. Tout sourire, ils nous disaient qu’ils étaient fiers du fait que la concentration du césium dans les produits laitiers de Valdres ait été maintenue à un niveau inférieur à celle des produits issus des autres régions de la Norvège, où les mesures de radioprotection n’étaient pas préscrites.
Néanmoins, je me souviens clairement que lors de ma visite il y a 2 ans, j’avait été frappée par une certaine dureté qui s’exprimait dans leurs visages lorsqu’ils m’ont raconté ce qui s’était passé lors de la découverte de la contamination. En voici les détails : comme les appareils de mesure n’existaient qu’à la capitale Oslo, la contamination de Valdres n’a été détectée qu’au bout de plusieurs semaines après la catastrophe. Mme Anne Helle s’était aperçue en première de la contamination, par le fait que le chiffre de l’iode radioactive 131 contenu dans le lait produit dans la région était anormal. Comme l’administration ne réagissait que très lentement et qu’il n’y avait alors aucun compteur Geiger sur place, Mme Helle en a acheté un avec les dons qu’elle avait collectés auprès des habitants locaux. Munie de son compteur, elle a parcouru la région de long en large en mesurant tout ce qu’elle pouvait mesurer. Les fabricants du compteur Geiger ont été surpris de la manière dont elle et ses amies s’en servaient, parce qu’ils ne s’attendaient pas à ce que l’appareil soit utilisé à l’extérieur. À l’époque, les informations étaient extrêmement confuses et la méfiance envers l’administration étatique ne cessait de s’accroître. Mais grâce au fait que ce furent les gens de la région, comme Mme Helle, qui effectuaient les mesures, le calme est peu à peu revenu.
Bien qu’en laissant échapper parfois un air empreint d’une sorte de nostalgie, ils gardaient encore une nervosité plus qu’évidente dans leurs expressions ainsi que dans le ton de leurs voix. Impressionnée par la différence qu’avait cette expression par rapport à l’air tranquille qu’ils avaient lorsqu’ils parlaient du moment actuel, j’ai songé à leur situation d’antan et même je me suis demandée si moi aussi j’avais peut-être une expression semblable à la leur.
L’expression sur leurs visages traduisait toutes sortes de sentiments comme le désespoir, la colère, la tristesse, la solitude ; elle était néanmoins pénétrée d’un amour émouvant pour la vie. Je n’avais jamais vu jusqu’alors une expression de visage aussi complexe que celle-là. C’aurait été une expression spécifique que portent seuls ceux qui ont connu ce que tu appelles une « expérience ineffable ». Ils m’ont affirmé il y a deux ans, en me regardant droit dans les yeux, qu’il devrait sûrement aussi exister à Fukushima la possibilité de prendre des contre-mesures efficaces face à la situation de la contamination radioactive. J’ai ressenti à cet instant que les habitants de Valdres essayaient de me transmettre leur expérience en tant qu’individus connaissant la même souffrance. Qu’il y ait des personnes qui veuillent bien comprendre les peines causées par l’accident nucléaire de Fukushima et qui essayent de les partager, cela m’a touché d’une manière profonde. Et ce fut la même émotion que j’ai éprouvée en Biélorussie que j’ai visitée plus tard.
Certes, la conversation que nous avons eue portait quasi exclusivement sur la radioactivité, mais je pense que ce que nous avons échangé par-dessus tout, ce furent nos expériences respectives qui ne peuvent être exprimées par des mots. Une fois le grave accident survenu, quelles ont été les souffrances que nous avons endurées ? De quoi s’agissait-il ? Que cherchions-nous ? Quels sentiments avons-nous éprouvés ? La plupart de ces choses sont difficiles à formuler verbalement. Et même si l’on y arrivait, la signification véritable ne pourrait pas être saisie par ceux qui n’ont pas partagé la même expérience. Cependant, je ne peux m’empêcher de croire qu’en Norvège et en Biélorussie, alors que ce fût chaque fois un contact éphémère d’une courte durée, nous avons pu nous comprendre mutuellement et même partager nos expériences au-delà des mots. Je ne saurais dire à quel point cette communication qui peut paraître bien étrange, constituait pour moi un grand soutien pendant les deux années qui ont suivie. Le fait de pouvoir penser qu’il existe de l’autre côté de la mer des gens qui ont vécu les mêmes expériences et partagent les mêmes sentiments, m’a toujours été d’un grand encouragement. J’ajoute que j’ai toujours pensé qu’il y avait sûrement d’autres personnes à Fukushima qui auraient eu besoin du soutien et de l’encouragement que j’avais ainsi obtenus. C’est pourquoi la nouvelle visite en Norvège que j’ai pu faire cette fois avec mes amis a été une joie exceptionnelle pour moi.
A propos, lors de notre dernière rencontre, j’avais complètement oublié de te raconter un épisode amusant,entendu à Suetsugi.
Ce fut au moment de l’examen anthropogammamétrique qui s’est déroulé en juillet dans la zone. (Les personnes qui souhaitaient passer l’examen ont rejoins les locaux en minibus. Tout le monde dans le bus m’apparaît chaque fois être si joyeux que j’appelle personnellement ce déplacement « l’excursion anthropogammamétrique ». )
Dans la salle d’attente où résonnaient sans cesse des rires, je bavardais à propos de la radioactivité avec une inconnue. Dans la zone de Suetsugi, depuis l’automne 2011, les habitants de la région ont pris l’initiative de mesurer la radioactivité au travers des débits de dose au niveau du sol ou dans l’air. Mon interlocutrice trouvait cette initiative admirable. Mais écoute ce qui a suivi :
« Vous savez, il paraît qu’un monsieur étranger vient fréquemment par ici. C’est très gentil de sa part de venir dans un village comme le nôtre, où l’on ne trouve quasiment rien. Tout ça, c'est grâce au gens qui ont travaillé dur jusqu’à aujourd’hui. Il paraît que ce monsieur vient chaque fois chez Shinya. Il dit qu’il n’a pas besoin de manger, qu’il lui suffit seulement d’une place pour dormir. On ne peut quand même pas refuser une demande si modeste. À propos, J’ai vu l’autre jour Shinya exposer des futons au soleil. »
C’est une femme que tu n’as jamais rencontrée qui m’a fait ce récit. A l’évidence, le « monsieur étranger », c’est toi. Dans ce récit, toi qui devrait être le « passeur » était devenu à ton insu un « monsieur étranger », un brin malheureux, qui se fait du souci pour se loger, et supplie un ami du coin de lui laisser une place pour une nuit, mais qui est tout plein de gentillesse et de bonté. J’ai trouvé ce récit si drôle que j’ai poursuivi la conversation sans corriger la version de mon interlocutrice. En étouffant mon rire, et avec un air sincère comme si cela avait été la première fois que j’étais mise au courant, j’ai acquiescé à ses paroles en disant que c’était certes un étranger plutôt bizarre, mais qu’avec sa volonté généreuse il n’en était pas moins le bienvenu.
Ainsi, même entre les gens qui ne t’ont jamais vu, qui ne savent pas ton nom et encore moins ta carrière, la présence d’un étranger qui vient de temps en temps à Suetsugi est en train de se répandre.
J’ajoute pour finir qu’en lisant ta dernière lettre, je ne sais pourquoi, mais l’image de toi qui reste planté sur place ne sachant que faire pour passer la nuit dans une campagne éloignée du Japon, et celle dans ton enfance qui attend dehors dans la lueur des lucioles la venue de tes chers parents, m’ont paru superposées.
Ah oui, il vaudrait quand même mieux que j’ajoute également ceci : le résultat de l’examen anthropogammamétrique a été bon pour tout le monde. Cette fois-ci, de même que lors des examens précédents, tous les résultats se sont révélés au-dessous de la limite de détection. Ce qui est aussi le cas dans beaucoup de régions de Fukushima.
20 septembre 2014
Dans une nuit parfumée d’oliviers odorants,
Ryoko ANDO
Dans une nuit parfumée d’oliviers odorants,
Ryoko ANDO
編集部註
〔*〕現存被ばく状況 [Existing exposure situation]
――
「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今,行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は,すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には,これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中,又は悪意ある行動により発生するかもしれない,至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが,一方,線量限度の適用の原則は,計画被ばく状況の結果として,確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は,害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性,被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは,すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら,合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の,計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も,委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今,行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は,すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には,これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中,又は悪意ある行動により発生するかもしれない,至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが,一方,線量限度の適用の原則は,計画被ばく状況の結果として,確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は,害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性,被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは,すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら,合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の,計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も,委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
〔***〕ICRP Publ. 111――正式には、ICRP Publication 111, Application of the Commission's Recommendations to the Protection of People Living in Long-term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency.
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111
〔****〕インタビュー ――「(東日本大震災3年)福島とチェルノブイリ ジャック・ロシャールさん」(「朝日新聞」2014年3月21日)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11040735.html
安東量子+ジャック・ロシャール「渡し舟の上で――現存被曝状況から、現存被曝状況へ」目次
第1回
第2回
*第1回は「朝日出版社第二編集部ブログ」でお読みいただけます。
梶谷懐「現代中国――現在と過去のあいだ」目次
第1章:烏坎村と重慶のあいだ
第 1回 公共性と一般意志をめぐる考察(1)
第 2回 公共性と一般意志をめぐる考察(2)
第 3回 公共性と一般意志をめぐる考察(3)
第 4回 公共性と一般意志をめぐる考察(4)
第2章:左派と右派のあいだ
第 5回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(1)
第 6回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(2)
第 7回 毛沢東はなぜ死な(ね)ないのか(3)
第3章:「国家」と「民間」のあいだ
第 8回 中国は国家資本主義なのか(1)
第 9回 中国は国家資本主義なのか(2)
第10回 中国は国家資本主義なのか(3)――中国経済の「自生的な秩序」と国家資本主義
第4章:日本と中国のあいだ
第11回 「近代性」をめぐる考察(1)
第12回 「近代性」をめぐる考察(2)
第13回 「近代性」をめぐる考察(3)
*第1回から第12回は「朝日出版社第二編集部ブログ」でお読みいただけます。